婦人家庭百科辞典 上 あーし


婦人家庭百科辞典 上 あ-し (ちくま学芸文庫)   婦人家庭百科辞典 下 す-わ (ちくま学芸文庫) 言海 (ちくま学芸文庫)
【コメント】
読書というと語弊があるかもしれないが、辞書は“引くもの”でありまた“読むもの”でもある。特に古い時代の辞書あるいは特定分野・特定の読者を想定した辞書というものは、読んで面白いと思う事が多い。同じちくま学芸文庫から復刻された、大槻文彦編・『言海*1もそうだが、これらの辞書には編纂当時の社会・文化・生活を反映した“言葉”が並んでおり、当時を知る手がかりになるのである。言葉を代えれば、“昭和前期の歴史資料としての百科辞典”とも言えよう。
本書は、1937年(昭和12年)、三省堂から刊行された「婦人家庭百科辞典」・1巻本を上下2巻に分冊し、文庫版で復刻したものである。たまたまちくま文庫の目録中で目に付いたので、少々値は張るが昭和の資料集として購入した。
本書初版が刊行された、昭和12年はまだ太平洋戦争前であり、国内はそれほど戦争色の強くない時期だったのだろうか?しかし大正デモクラシー以来、労働運動、婦人運動の高まりによりいろいろな政治的軋轢のある時代だったはずだ。また軍部は既に中国大陸での活動などから国政への影響力を増している時期でもあった。そして着実に戦争へ向かって走り始めていたのである。そんな時期に『婦人の教育・啓蒙』を主題にした本書が編纂・出版された意義とはなんなのだろうか?やはり政治・経済・国際化の変換点としての太平洋戦争はまた、封建的家族制度の変換点でもあったのだろうか?
本書の目指すところは何なのかを考えるために、「はしがき(本書編集部の趣旨)」と「本辞典の活用に就いて」から編集部の弁をいくつか引いてみよう。

家庭生活を向上し、それを發展させ、その成員たるところの個人の人格を完成し、其の欲望を充実させ、幸福なる生活を享受せしめることは人生の最大目的である。特に家族制度といふゆるぎなき基礎の上に深く其の根底を置いてゐる我國の家庭生活では、それがやがて國家社曾の隆昌を齎す所以であり、また光輝ある日本の將來を約束する唯一の原動力であることはいふまでもない。それほどに家庭生活の向上發展は、國家にとっても個人にとっても頗る重大な意義を持っているのであるが、しかもこれが理想を實現すべき重い責任の大半は、家庭の主婦たる婦人の雙肩にかゝってゐることを考へるとき、いかに其の任務の容易ならざるものがあるかを痛感せざるを得ないのである。   −上巻 013pp−

要するに、国家繁栄のためには家庭の繁栄が必要でありそのために婦人の教育が求められているということを言いたいのか?

・・・ しかも無限に範圍を擴げて行く今日の家庭生活に於いて、家庭といふ一っの船を操って、常に大小の波を押分けて進んでいかなければならぬ船長たる位置にある家庭の主婦には、またそれに應ずるだけの不斷の覺悟と用意とを備へて居なければならぬことは當然の事である。現實に即してこれをいふならば、「病氣」いう波も立上らう、「育児」といふ嵐も押し寄せやう、「教育」といふ必要も迫って来る、それには「家事の心得」といふ舵がなくてはならぬ。・・・            −上巻 013〜014pp−

ここでは家庭の主婦の具体的重要性を挙げている。船長とか舵取りとかという例えが少々こそばゆい感じがするが・・・。
編集内容については以下のようになっている。

「婦人家庭百科辞典」の體系
従って本辭典の内容と致すところは、家庭生活上最も必要な衣食住に關する事項を始めとし、育児・衛生・療病・美容・趣味・儀禮・娯楽其他、一般家庭生活、婦人生活に關聯するところのあらゆる部門に互りまして、婦人の常識として知らねばならぬ必要な事項を蒐集し、これを五十音順に排列して、・・・・・・。           −上巻 022pp−

という具合である。まさしく婦人のための百科辞典を意図したものである。なお排列は五十音順になっているが、巻頭にいろは索引が掲げられている。この時代でもまだいろは順の方が馴染みやすい読者が多かったのだろうと思われる。



本書は、中規模サイズの百科辞典に相当するが、内容的には婦人の生活関係を中心にしたもので、今日的にもかなりユニークといえる。また小項目主義の百科辞典が多い中で、大項目主義と小項目主義が混在しており、「読む辞典」としても機能するように編まれている。ここで興味を引いた項目・記述を幾つか拾ってみたい。

でんきしちりん(電氣七輪)
電氣を利用した七輪。通常は圖「イ」*2のやうに磁器の圓板の溝の中にニクローム線が入ってゐて、これに電流を通じて熱するのである。ニクローム線は盬分によって切れやすくなるから、汁などをこぼさぬやうにせねばならぬ。                        −下巻 240pp−

他に電氣座布団、電氣冷蔵庫、電氣ストーブなどが写真付きで立項されている。これら電気関係の一群は注目である。これらの記述から、当時既に『家電』としてこれらのモノが紹介されるほどになっていたということを意味しているからである。

せんきょ(選擧)
衆議院議員選擧、府縣・市町村曾議員選擧などのやうに、或る目的のために多人數の中から特定の人を選擢・指定すること。選擧の方法は通常は投票によるが、指名・抽籤を用ひることもある。選擧制度には「制限選擧制」と「普通選擧制」との二種がある。
制限選擧制
特殊の資格、即ち納税・教育・土地所有・獨立の生計などを選擧権の要件とするもので、この條件に應じた資格者のみによって選擧をなすものである。
普通選擧制
選擧権者にそれらの資格條件をつけないものである。我國では大正十四年五月の衆議院議員選擧以来、普通選擧制が採用され國民の大部分がこれに参加し得るやうになった。選擧権を持つ者は、帝國臣民たる男子中年齢二十五歳以上の者で、同じ市町村内に1年以上定住してゐるもの、また被選擧権を持つ者は、帝國臣民たる男子で、年齢三十歳以上のものとされてゐる。現在では婦女子にはこの資格がなく、また選擧権・被選擧権の資格を持たない者は、「衆議院議員選擧法」第六條にしめしてある。   −下巻 84pp−

以上が選挙に関する記述である。現在の一般的な歴史書に記されるように、当時の婦女子には選挙権・被選挙権が無かったことなどが簡潔に述べられている。やはり資料としての「辞典」である。
下巻の巻末にある武藤康史氏の解説によると、当時三省堂冨山房*3百科辞典出版で競い合っていたそうだ。当時は各種の百科辞典が次々と刊行され、何れも良く売れたという。明治維新以後市民への啓蒙の時代であったことから、こういった本が要望されたのであろう。しかしその両雄が潰しあいをしている間に第3勢力である平凡社が参入し、『百科辞典平凡社』といわれるほどに成長したという。*4なお現在は両雄ともに百科辞典は刊行していない。またその平凡社も現在は小学館*5TBSブリタニカ*6に脅かされているという具合だ。
他にもいろいろ面白い記述があり、書きたいことも多くあるが、長くなったのでこの辺でおしまいにしたい。更なる紹介は今後の機会に譲りたい。というわけで結論は私にとってのヒット本といえる本であったということです。



【タイトル】  婦人家庭百科辞典 上 あ−し  はてな年間100冊読書クラブ−No.026
【編者】    三省堂百科辞書編集部 
【出版社】   筑摩書房ちくま学芸文庫 ん4−1)
【発行年月日】 2005年2月10日
【版型 頁数】 文庫版 924頁
【版 刷】   初版1刷
【ISBN】    4480088989
【価格】    1890円
【目次】
凡例 ・・・ 5 
五十音索引・いろは索引 ・・・ 8
はしがき(本書編集部の趣旨) ・・・ 11
執筆家芳名 ・・・ 15
本辞典の活用に就いて ・・・ 22
図版目録 ・・・ 24
婦人家庭百科辞典 ・「あ」部〜「し」部 ・・・ 25

*1:一般には“げんかい”と呼ばれているが、編者は“ことばのうみ”と呼んでいる。現在も刊行されている『大言海』・冨山房の出発になった辞書、初版は自費出版明治22年刊行

*2:本文横に図「イ」として写真が掲載されている

*3:近代国語辞典のスーパースター、大槻文彦編・『大言海』の版元として有名

*4:世界大百科事典を刊行している

*5:スーパー・ニッポニカという大百科を刊行している

*6:ブリタニカ世界大百科辞典を刊行